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関東・関西の“関”ってどこ?「関」の意味と歴史的背景

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目次

関東・関西の“関”とはどこ?

日本では「関東」「関西」といった地域区分が一般的に使われていますが、この「関(せき)」とはいったいどこのことを指しているのでしょうか?

実はこの“関”は、古代日本の交通と政治を支えた「関所(せきしょ)」に由来しています。この記事では、「関」の意味や場所、そして関東・関西という地名が生まれた歴史的背景を詳しく解説します。


そもそも「関」とは何を意味するのか?

「関(せき)」とは、古代日本で設けられた国境のような検問所のことです。
人や物の出入りを管理する場所で、治安維持や税の徴収、反乱防止などの役割を持っていました。

つまり「関」は、国と国の境を守る重要な“門”のような存在だったのです。

「三関(さんげん)」とは?

古代日本には特に重要とされた3つの関所があり、「三関(さんげん)」と呼ばれていました。

  • 不破の関(岐阜県不破郡関ケ原町):東山道を守る関所で、近畿と東国を分ける要衝。
  • 鈴鹿の関(三重県亀山市):東海道を通る関所で、交通の要として知られる。
  • 逢坂の関(滋賀県大津市と京都市の境):山城国と近江国の境にあり、都の出入りを管理する重要拠点。

これらの「三関」が、のちに“関の東”“関の西”という地域の呼び方のもとになりました。
つまり、関東と関西の“関”とは、この三関のいずれか(特に逢坂の関)を指しているのです。


関東・関西の“関”はどの関?

歴史的には、もっとも有力とされているのが逢坂の関(おうさかのせき)です。
京都の東側に位置し、都(京都)から東国へ向かう玄関口だったため、「この関の東=関東」「この関の西=関西」という呼び名が生まれました。

つまり、「関東」「関西」は、京都(古代の首都)を基準にした地理的な呼称なのです。

関東=東の地域、関西=都に近い地域

古代から中世にかけて、日本の政治・文化の中心は京都にありました。
そのため、京都より東にある地域を「関東」、西や周辺を「関西」と呼ぶようになったのです。

江戸時代に入り、江戸が政治の中心になると「関東」は関東平野一帯を指すように広がり、現代では「1都6県(東京・神奈川・埼玉・千葉・茨城・栃木・群馬)」を意味するようになりました。

「関西」という言葉の由来

「関西」という言葉は、もともと「畿内(きない)」と呼ばれていた地域とほぼ同義でした。

畿内とは、天皇の住む都(京都)を中心に、大和・山城・摂津・河内・和泉の5つの国を指します。

この「畿内」に接する地域を「関の西=関西」と呼ぶようになったのが始まりです。
現在でも、京都・大阪・兵庫・奈良・滋賀・和歌山などが「関西地方」として分類されています。


関東・関西の違いは“都”との距離にあった

結局のところ、「関東」と「関西」の分かれ目は、“都(京都)から見て東か西か”という基準にあります。

この基準が誕生したのは平安時代以前であり、1000年以上たった今もその名残が残っているのです。

言葉の違いや文化の差(例:うどんの味、出汁の色、言葉遣いなど)も、この地理的区分が影響しているといわれます。

“関”を感じる旅へ:逢坂の関跡を訪ねて

滋賀県大津市の「逢坂の関跡」には、現在も石碑が建てられており、古代日本の交通史を感じることができます。

近くには比叡山延暦寺や三井寺、琵琶湖などもあり、関の歴史を学びながら観光も楽しめるスポットです。

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逢坂の関跡を訪ねて、“関”の歴史と東西の境界線を感じてみてください。

まとめ:「関」は日本の東西を分ける歴史の境界線

「関東」「関西」の“関”は、古代日本の重要な関所「逢坂の関」に由来します。

京都を基準に“関の東=関東”“関の西=関西”と呼ばれるようになり、今もその名残が日本地図に刻まれています。

単なる地名ではなく、日本の歴史と文化の区分を象徴する言葉なのです。

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