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もんじゃ焼きとは?東京下町を代表するソウルフード
もんじゃ焼きは、東京を中心に親しまれている鉄板料理で、小麦粉を水で溶いた生地にキャベツや桜えび、切りイカ、もち、チーズなどを加えて焼き上げるのが特徴です。具材の自由度が高く、カスタマイズ性に富んでいるため、家庭ごと・お店ごとに個性的な味があります。
一番の特徴は、生地が非常にゆるく、鉄板の上で「ジュワーッ」と焼きながら、小さなヘラ(通称:はがし)を使って直接鉄板から食べるスタイル。アツアツを少しずつ楽しむ、まさに“鉄板を囲むコミュニケーションフード”として愛されてきました。
もんじゃのルーツは駄菓子屋にあった?
もんじゃ焼きの起源は諸説ありますが、もっとも有力なのが「駄菓子屋もんじゃ」と呼ばれる形です。明治時代から昭和初期にかけて、東京の下町では子どもたちが集まる駄菓子屋で、鉄板の上に水で溶いた小麦粉と味噌やソースを垂らし、具材もほとんど入れずに焼いて食べる「遊び食い」が流行しました。
このスタイルは、今のもんじゃ焼きのような豪華なものではなく、あくまで「おやつ」や「遊び感覚」で食べる軽食だったのです。焼きながら文字を書く遊びから「文字焼き」→「もんじゃ焼き」へと名前が変化したという説もあります。
浅草がもんじゃ文化の発祥地といわれる理由
浅草は、江戸時代から商業と娯楽の中心地として栄え、昭和に入ると庶民の街としても親しまれるようになりました。そんな浅草では、戦後の食糧事情が厳しかった時代にも、子どもたちの空腹を満たす安価な食べ物として、もんじゃが駄菓子屋で提供されていました。
浅草六区や観音裏などでは、かつて駄菓子屋に鉄板があり、「駄菓子屋もんじゃ」を楽しむ子どもたちの姿が当たり前だったといわれています。まさに、もんじゃ焼きの原風景は浅草にあり、歴史的にも重要な“発祥地のひとつ”とされています。

昭和の雰囲気漂う浅草のホッピー通り
現代では飲食店でしっかりとした食事としてもんじゃが提供されるお店が増え、観光客にとっても注目の下町グルメとなっています。
月島が「もんじゃの街」として有名になった背景
月島は、東京湾の埋め立てによって誕生した地域で、昭和初期までは倉庫街や工場が立ち並ぶエリアでした。そんな月島がもんじゃの街として注目され始めたのは、1970年代以降のことです。
地元住民の間でもんじゃを家庭料理として楽しむ文化があったものの、商店街が地域活性化を狙って「もんじゃ専門店」を次々に開業したことで注目が集まりました。そして、「月島もんじゃ振興会」が観光向けに積極的なプロモーションを行ったことにより、月島は“もんじゃの聖地”として全国的に知られるようになりました。
現在では、「月島もんじゃストリート」として約70軒近くの専門店が軒を連ね、国内外の観光客が訪れる人気スポットになっています。
浅草ともんじゃ、月島ともんじゃ——地域による違い
浅草のもんじゃは、歴史的に「駄菓子屋スタイル」を色濃く残しており、素朴でどこか懐かしさを感じさせる味わいです。トッピングも比較的シンプルで、伝統的な作り方を守っているお店が多く見られます。
一方で、月島のもんじゃは「進化系もんじゃ」として発展しており、明太もちチーズやカレーもんじゃ、海鮮もんじゃなど多彩なバリエーションが楽しめます。鉄板を囲んでワイワイと盛り上がるスタイルも月島独自の魅力であり、家族連れや観光客に人気です。
つまり、浅草=もんじゃのルーツと文化、月島=現代風に進化したエンタメグルメとして、異なる価値が共存しているのです。
まとめ:もんじゃ焼きの歴史と、浅草・月島の深い関係
もんじゃ焼きは、江戸・明治・昭和と、時代の流れの中で東京下町に根づいた食文化です。そのルーツをたどると、浅草で生まれた駄菓子屋文化と密接に関係しており、現在のような「もんじゃ料理」へと形を変えていきました。
そして、月島では地元の人々や商店街の努力によって、もんじゃが観光資源として発展を遂げ、「月島=もんじゃ」というブランディングに成功しました。
もんじゃを通じて、東京の下町文化や人々の暮らし、そして地域の魅力に触れることができます。ぜひ浅草と月島、両方のもんじゃを味わい比べてみてはいかがでしょうか?
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